【追悼】ドリー・ファンク・ジュニア死去・死因は?偉大な経歴を振り返る

追悼

プロレス界の至宝“グレート・テキサン”ことドリー・ファンク・ジュニア氏が、2026年8月4日、85歳でこの世を去りました。

かつてNWA世界ヘビー級王者として長期政権を築き、日本でもジャイアント馬場やアントニオ猪木と死闘を繰り広げたレジェンドの急逝に、世界中から哀悼の声が寄せられています。

本記事では、死因や最期の様子、プロレス史に燦然と輝く偉大な経歴、愛された素顔までを分かりやすく解説します。

死因と最期の様子:なぜ急逝だったのか

2026年8月5日(日本時間)、世界最大のプロレス団体WWEが公式サイトを通じて、元NWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニア氏の訃報を公表しました。

日米のプロレスファンや関係者に大きな衝撃と深い悲しみが広がっています。

まず、訃報の概要と最期の状況をまとめたデータは以下の通りです。

詳細内容
逝去日2026年8月4日(現地時間)
享年85歳
逝去場所アメリカ・フロリダ州オカラの自宅
最期の様子マーティ夫人の献身的なホスピスケアのもと、自宅で静かに息を引き取る
発表WWE(公式サイト等を通じて公表)

特定の病名は非公表も「安らかな最期」

公式発表において、特定のがんや心臓病といった病名は明らかにされていません。

しかし、長年連れ添った最愛のマーティ夫人による献身的なホスピスケア(終末期ケア)のもと、自宅で静かに最期の時を迎えたと報じられています。

2年前には「あと10年は現役」と爆破マッチに出場

ファンにとって急逝に感じられた背景には、直近まで彼が見せていた圧倒的な元気さがありました。

亡くなる約2年前の2024年8月、弟テリー・ファンク氏の一周忌追悼興行のために来日したドリー氏は、なんと83歳で電流爆破マッチに出場

十八番の「スピニング・トーホールド」を繰り出し、健在ぶりを見せつけました。

当時、空港で大好きなアイスクリームを美味しそうに食べ、「私にはあと10年ある」と笑顔で語っていた姿が記憶に新しいため、今回の訃報は日米に大きな驚きを与えました。

偉大な経歴①:20代で世界の頂点「NWA世界ヘビー級王者」

ドリー・ファンク・ジュニア氏のプロレス人生において、最大のハイライトの一つが20代で登りつめた「NWA世界ヘビー級王者」としての輝かしい実績です。

内容・記録
王座戴冠日1969年2月(当時28歳)
対戦相手(奪取時)ジン・キニスキー
在位期間約4年3か月(1969年2月〜1973年5月)
歴史的価値歴代2位の長期政権(1位はルー・テーズ)

世界を魅了した「受けの美学」

当時のプロレス界において、NWA世界ヘビー級王者は世界各地のトップレスラーからの挑戦を受け続ける「絶対王者」を意味していました。

ドリー氏が4年3か月という長きにわたり王座を守り抜けた理由は、彼の代名詞である「受けの美学」にあります。

どんな挑戦者の攻撃も正面から受け止め、相手の強さと魅力を極限まで引き出した上で、最終的に自らのテクニックで勝利を収める。

その圧倒的な懐の深さとスタミナこそが、プロレス界の最高峰として君臨し続けた理由でした。

偉大な経歴②:日本プロレス界を象徴する伝説の激闘

日本プロレス史を語る上で、ドリー・ファンク・ジュニア氏の存在を外すことはできません。

1969年の初来日以来、昭和の日本プロレス黄金期を創り上げた立役者でした。

猪木・馬場との「60分フルタイムドロー」

1969年の初来日において、ドリー氏はアントニオ猪木氏、ジャイアント馬場氏という日本の二大巨頭と連日60分一本勝負を行い、いずれも60分フルタイムドロー(引き分け)を演じました。

特にアントニオ猪木氏との一戦は、猪木氏自身が生涯の「ベストバウト」として挙げたほどの超名勝負であり、日本のファンに「世界王者の真の凄み」を鮮烈に植え付けました。

出来事・対戦相手日本プロレス史への影響
1969年アントニオ猪木、ジャイアント馬場と60分フルタイムドロー世界王者の圧倒的な実力を日本中に証明
1977年「世界オープンタッグ選手権」優勝(ザ・ファンクス)爆発的な「ファンクス・ブーム」の到来
1970〜80年代ブッチャー&シーク組との流血抗争兄弟タッグで日本中を熱狂の渦に巻き込む

弟テリーとのタッグ「ザ・ファンクス」で日本中が熱狂

弟テリー・ファンク氏とのタッグチーム「ザ・ファンクス」は、日本のプロレスファンから絶大な愛を集めました。

1977年の世界オープンタッグ選手権では、凶悪タッグのアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組と激闘を繰り広げて優勝。

テキサスの爽やかな兄弟が見せる絆とファイトスタイルは、日本中に爆発的なブームを巻き起こしました。

指導者としての顔:ジャンボ鶴田、天龍源一郎らを育成

ドリー氏は現役王者として活躍する一方、後進の育成や団体運営においても計り知れない貢献を残しました。

「プロレスの教科書」と称された緻密なレスリング技術は、日米のトップレスラーたちへ脈々と受け継がれています。

主な門下生・育成したレスラー

所属主な育成・指導選手エピソード・関係性
日本プロレス界ジャンボ鶴田、天龍源一郎、三沢光晴、西村修 など鶴田にとってドリーは「終生の先生」。基礎理論を徹底的に叩き込む
海外・WWEスタン・ハンセン、テッド・デビアス、ハーディー・ボーイズ など若手時代の指導やコーチングでスター選手へ育成
役職・組織全日本プロレス「PWF第4代会長」団体の象徴・重鎮としてタイトル管理や組織運営を支える

ジャンボ鶴田氏はアメリカ修行時代にドリー氏からプロレスの基礎を学び、ドリー氏を「最高の先生」と仰ぎました。

また、天龍源一郎氏や三沢光晴氏といった日本プロレス界の歴史を創った名選手たちも、ドリー氏の教えを胸にリングに立ち続けました。

素顔のエピソード:緻密な王者と超マイペースな私生活

リングの上では一分の隙もない緻密な「レスリングマスター」だったドリー氏ですが、プライベートでは人間味あふれるユニークな素顔を持っていました。

  • マイペースすぎる私生活
    • 全日本プロレスで長年名レフェリーとして活躍したジョー樋口氏は、「リングの上ではあんなに緻密なのに、私生活では驚くほど大雑把でマイペース。

      集合時間に電話しても、まだぐっすり寝ていることがよくあった」と懐かしそうに語っています。
  • 大の日本好き・朝食には「納豆」
    • 非常に強い日本愛を持っていたことでも知られます。来日中のホテルでは和食を好み、特に「納豆」が大好物でした。

      体が資本のアメリカ人レスラーが朝から納豆を美味しそうに食べる姿は、当時の日本の関係者を驚かせました。

リング上での格調高き姿と、プライベートで見せるお茶目でマイペースなギャップも、ファンや関係者から長く愛された理由の一つです。

結び:テリーのもとへ、永遠の「フォーエバー」

2023年8月、最愛の弟であり生涯のパートナーであったテリー・ファンク氏が79歳で先立ちました。当時、ドリー氏は深く憔悴しながらも、「ザ・ファンクスは永遠(フォーエバー)です」と語り、弟の遺影を抱いてリングに上がり続けました。

そして2026年8月4日、ドリー・ファンク・ジュニア氏もまた天国へと旅立ち、天国で待つテリー氏と再び固い握手を交わしたことでしょう。

ドリー氏が日本のファンに向け遺した「プロレスが見たいなら日本へ行け」という言葉通り、彼が築いたレスリングの伝統とスピリットは、今も日本のリングで脈々と受け継がれています。

昭和、平成、令和の時代を駆け抜けた“グレート・テキサン”の偉大な足跡は、ファンの記憶の中で永遠に色褪せることはありません。心からの感謝と哀悼の意を込めて——フォーエバー、ザ・ファンクス!

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