日本プロ野球(NPB)史上唯一の通算3000本安打を達成し、「安打製造機」として球史に偉大な名を刻んだ張本勲さんが亡くなりました。

本記事では、張本勲さんの訃報の概要をはじめ、公表されている死因や近年の体調、幼少期の過酷な生い立ちとご家族・お子様に関するエピソード、前人未到のプロ野球経歴と各種記録、さらには名物コメンテーターや平和活動など多岐にわたる生前の活動までを分かりやすく解説します。
訃報の概要:日本球界のレジェンドが逝去
2026年9月9日午後5時ごろ、日本プロ野球界の至宝であり、元プロ野球選手・野球解説者の張本勲さんが東京都内の病院で亡くなられました。86歳でした。
現役時代は東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)、読売ジャイアンツ、ロッテオリオンズの3球団で凄まじい打撃力を発揮し、日本プロ野球史上唯一となる通算3000本安打(最終記録は通算3085安打)を達成。
まさに「安打製造機」と呼ぶにふさわしい圧倒的な成績を残されました。
引退後も鋭い視点と愛のある語り口で野球解説者・コメンテーターとして活躍し、世代を超えて広く全国のファンから親しまれていました。球界のみならず、日本中に大きなショックと悲しみが広がっています。
死因と近年の体調について
張本勲さんの死因について、公表された情報では具体的な病名などは明らかにされていませんが、東京都内の病院にて静かに息を引き取られたと報じられています。
近年の様子としては、2021年11月に老後を穏やかに過ごしたいという理由から、約23年間にわたりレギュラー出演を続けた『サンデーモーニング』のコメンテーターを同年限りで卒業されました。
その後、2024年春には腰の手術を受けられました。同年5月に東京ドームで開催された「王貞治デー」のファーストピッチ(始球式)に参加した際には、少しほっそりとした姿で杖をついて登場し話題となりました。
その際、ご本人からは「腰の手術で筋肉が落ちてしまい杖をつくことになったが、特に大病をしたわけではない」と語られており、晩年まで野球界への情熱を持ち続けながらリハビリに励んでおられました。
妻・家族・子供について:過酷な生い立ちと徹底したプロ意識
張本勲さんの妻や子供についての具体的なプロフィール(お名前や現在の詳細等)は公表されていませんが、家庭生活における徹底したプロ意識や、幼少期を支えたご家族との絆に関する数々のエピソードが残されています。
幼少期を支えた家族と壮絶な生い立ち
広島県広島市で育った張本さんは、幼少期から極貧、戦争、被爆、そして体のハンデという壮絶な試練を経験されています。
| エピソードと深い絆 | |
| 母(朴南田さん) | 父親の急死後、女手一つで闇市の店を営み子供3人を育成。 張本さんはプロ入団時の契約金200万円で広島に家を建てて恩返しを果たしました。 |
| 兄 | 家計が苦しい中、自身の給料の約半分(月1万円)を仕送りし、 張本さんの浪華商業高校への転校と甲子園の夢を支え続けました。 |
| 長姉(点子さん) | 1945年8月6日の広島原爆投下により、12歳で全身に大火傷を負い亡くなりました (張本さん自身も5歳で被爆)。 |
| 右手のハンデ | 4歳の冬にとんど(焚き火)へ落ちて右手に大火傷を負い、 指の自由を失う後遺症が残るも、血の滲む努力で左投げ左打ちへ転向しました。 |
家庭で見せたストイックなプロ意識
現役時代の家庭生活においては、毎日午前3時や4時に起きてひたすら素振りを重ね、引退するまで子供とは別の部屋で寝ていたと明かされています。
ご自身を「小心者で臆病者」と評し、その不安を打ち消すために家庭内でも妥協なく練習に打ち込む姿勢を貫いていました。
プロ野球経歴と前人未到の大記録
1959年に東映フライヤーズに入団した張本勲さんは、高卒新人ながら開幕からレギュラーに定着して新人王を獲得。以来、23年間の現役生活で日本球界の頂点に君臨し続けました。
移籍の歴史と不滅の大記録
東映時代には21歳で初の首位打者を獲得し、リーグ優勝とパ・リーグMVPに貢献。読売ジャイアンツ移籍後は親友の王貞治氏とともに「OH砲」を形成してセ・リーグ制覇に寄与しました。
そしてロッテオリオンズ時代の1980年5月28日、川崎球場で山口高志投手から本塁打を放ち、日本プロ野球史上初となる通算3000本安打を達成しました。
| 記録・実績 | NPBにおける評価・順位 | |
| 通算安打数 | 3,085本 | NPB歴代1位(前人未到の最多記録) |
| 首位打者獲得回数 | 7回 | NPB歴代最多タイ(イチロー氏と並ぶ) |
| シーズン打率3割以上 | 16回 | NPB歴代1位(9年連続達成の最長記録も保持) |
| トリプルクラウン的偉業 | 通算打率3割・500本塁打・300盗塁 | NPB史上唯一(世界でもウィリー・メイズ氏と張本氏のみ) |
| 通算猛打賞回数 | 251回 | NPB歴代1位 |
安打製造機と呼ばれながらも通算504本塁打・319盗塁を記録しており、走・攻・守の全てにおいて規格外のレジェンドであったことが分かります。
多岐にわたる生前の活動と社会貢献
現役引退後の張本勲さんは、野球解説者にとどまらず、社会貢献や文化活動など多岐にわたる分野で大きな足跡を残されました。
| 活動内容と功績 | |
| コメンテーター活動 | TBS系列『サンデーモーニング』の「週刊 御意見番」に出演。 愛のある「喝!」「あっぱれ!」でお茶の間に親しまれました。 |
| 韓国野球への貢献 | 1982年の韓国プロ野球(KBO)創設時に尽力。 コミッショナー特別補佐官を務め、民間人最高位の「無窮花章(国民勲章1等)」を受章。 |
| 被爆体験の語り部 | 自身の被爆体験や戦火で亡くなった長姉の記憶を後世に伝えるため、 平和の尊さと戦争の悲惨さを訴え続けました。 |
| 映画・文化活動 | 映画『仁義なき戦い』制作時に菅原文太氏へ広島弁を指導。 自身も映画や時代劇『竜馬がゆく』等に出演し活躍しました。 |
自身の苦難の体験を糧にし、野球の発展だけでなく平和な社会の実現のために声を上げ続けた姿は、多くの人々に感銘を与えました。
まとめ:不屈の闘魂で駆け抜けた生涯
右手の大きなハンデ、原爆投下による被爆と身内の喪失、極貧の幼少期というあまりにも過酷な試練を乗り越え、バット一本で前人未到の金字塔を打ち立てた張本勲さん。
「3085安打」という不滅の大記録はもちろんのこと、日韓の野球界発展に尽力した功績、そして平和の尊さを訴え続けた情熱は、これからも日本球界と私たちの記憶に深く刻まれ続けることでしょう。
不屈の闘魂で昭和・平成・令和を駆け抜けたレジェンドの偉大な生涯に敬意を表するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。



